津田ホール・スペシャル21| 《松原勝也、+を語る》 | 聞き手:渡辺和(音楽ジャーナリスト) |
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――このバッハの曲なんですが、これは普通のソナタの次の番号ですよね。これはよくおやりになるんですか。 松原勝也(以下M):やらないです。 ――技術的なことでいうと、こっち(1曲目)は悠治さんとの、ピアノじゃなくてチェンバロと。こっち(最後の曲)はバスが入って。 M:安田さん。 ――それほど圧倒的に違う曲なんですか。 M:いや、曲目から考えたというよりも、人から考えたので(笑)。勿論、バッハというものを最初と最後、という考えは始めからあったんです。とにかく、最初は安田さんと悠治さんと、ピアノトリオが出来たら良いな、と思っていたのだけど。 ――それは、モダンピアノで、ということ。 M:そうそう。まずはこういう形から。曲はイメージが沸かないんで。今、出来ることはこれ。この3人でやってみたいなぁ、と思っていたんです。悠治さんのチェンバロというのは僕はすごく刺激されるんで。チェンバロでは一緒にやったことはないんですけど。ピアノでは何度かやったことはありますが、この前、チェンバロを聴いて、やっぱりこれかなぁ、と思って。ここに安田さんが入ったらどうかなぁ、と、ボンヤリと思ったら、ああ、良いんじゃないかなぁ、と思って。ピアノトリオという過激な方向はとりあえずおいておいてね。 ――それは全然過激ではないはずなんだけどねぇ、普通は(笑)。それが過激、という表現になるところがなんともね。 M:(笑)それがまずありましたね。それから、福田さんと渡辺さんというのは、全然違う世界なんだけど、ある種、重なる。安田さんや高橋悠治さんに対する思いと重なるところがある。でも、全然違う。で、これを一晩でどうなるかな、と思って。今までに、それぞれ一緒に共演した経験があるんだけど、飽きないんですよね。まだまだ底が見えないですね、みなさん。で、もっともっと一緒にやってみたいな、皆さん。その意思表示、というか。 |
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――ここにギターとあって、福田と渡辺、とありますが、このふたつのギターの違いというのは、一体何なんでしょうか。
M:ああ、全然違いますよ。 ――だからぁ、そういうんじゃあインタビューにならなくてぇ。渡辺さんのギターは、いわゆる、ギターなんですか。エレキギターとか、いろいろあるじゃあないですか。 M:僕も良くは知らないけど、渡辺香津美さんは、本来はエレキギターと呼ばれているものが専門なのかな、って。あんまりわかんないんですけど。でも、僕は彼のアコースティック・ギターが大好きなんです。 ――ここで弾くのは、いわゆるアコースティック・ギター。 M:それが好きで、福田さんのギターも。面白いのはこの2人が仲が良くて、よくふたりでやったりするのね、リサイタルなんかで。全然タイプは違うんだけど、奏法も違うし、切り口も違うわけでしょ。奏法もスタイルも違うし。でもお互いにレスペクトがあって。その2人を見ていて、違うものが一緒にやっていく、いわゆる、クァルテットで求心的に一つの音を作る、みたいな作業もあると思うのだけど、こうやって全然違うものが、違うままにお互いを尊敬し合って、というのは、僕のひとつの理想なんですよ。クァルテットでもそうなんですけどね。 ――そりゃ、昔から色々組んでやってる面子みてればわかる(笑)。そうするとね、この福田・渡辺・松原という仕掛けの中で、松原さんの作業は何をするんですか。刺激を与えるのですか、貰うんですか。 M:両方でしょうね。 ――この手の音楽は、いわゆる即興というものなの、それともちゃんと譜面に書いてあるの。 M:譜面があるところもあるし、ないところもある。ないところはアドリブです。 ――それはいわゆるジャズ、みたいなやつ。 M:何をもってジャズの即興というかは定義は難しいと思うんですが… ――全部の音がのっかっていて、小節線があって、みんな書いてある、というような。 M:それじゃあないです。全く、コードだけでなにもないところもありますよ。渡辺香津美さんに言わせると、僕とセッションをするときは、いわゆるジャズのセッションのフォーマットというか、即興のルールのギリギリのところを、疾走する感じなんだそうです(笑)。その辺の感覚、僕らは判らないけど。だから、僕らはなにも知らないから、福田さんもね、もう本当に思った音を弾いているだけなんですけど。 ――でもさ、それって、ジャズの人達って、即興をするといっても、実はポケットにいろいろ言葉を持っていて、それを、ここだったらこういう言葉がある、みたいに出してくるわけでしょ。だけど、あなたたち、そういう教養はないでしょ。教養、というか。 M:素養はないですね。でも彼からすれば、そういうのがない方が良いそうです。よくわかんないけど。ないのが、良い。 ――言うのは簡単だけど、トンでもないことだよね。 M:まあね。 ――だって、芸大の先生とすれば、教えるとか何とか、絶対に出来ないことでしょ。 M:できない。 ――その人が音楽とどう向き合っているか、とか、どう付き合っているか、とか。我々が使う下品な言い方をすれば、音楽性があるか、とかね。そういうのがモロに裸で出る部分じゃあない。 M:そうそう。 ――恐いよねぇ(笑)。恐い、というより面白いですか。 M:まあ、僕は面白がってますけどね(笑)。 ――こういうのの練習、というのは、カデンツァの終わりはどうしよう、とかするの。 M:あ、打ち合わせね。リハーサルではいろいろやってみたり。 ――じゃあ、だいたい設計図みたいなものは見えてるの。 M:きっかけみたいなものはありますよ。でも、それも、本番でそれが覆ることもあって、必ず約束通りにはいかなかったり。かといって、全く野放しでする、というのも、例えば香津美さんの方が、全体の曲のバランスを見て、もう少し即興は短い方が良いんじゃないか、とか、こんな感じでやられた方が良いんじゃないか、とか。そういうヴィジョンは彼は持って弾いてますよね。だから、その辺は、必ずしも全くただ即興をやるんじゃなくて、やっぱり曲全体は視野に入って。なんとも説明のしようはないけどね。曲の持っているキャラクターとか。それを判っていて逸脱していく場合もあるし。 ――こうやって話を聞いていると、ごく普通の意味で言うクラシックの発言ではないよねぇ。 M:そうかな。でも、ジャズのことはなにも知らないですよ。判らないです。でも、面白いですよ。例えば今言ったような即興のような部分の話と、バッハ、悠治さんや安田さんとやりますよね。特にバッハの場合は即興なんてなにもないわけですよ。 ――次に質問をそっちに行こうとしていたところです。ありがとう御座います。 M:はいはい、即興がない、その当時、それがまた批判の対象になったわけでしょ。全部がんじがらめにして、みたいな。 ――これは、装飾音を入れて遊ぼうとか、そういうのじゃあない。 M:そういうんじゃない。ただ、バッハがどういう意図で書いたかは判らないですけど、悠治さんと安田さんという2人の音楽家とこの曲を弾くということは、ある意味では、香津美さんと福田さんと即興することに、誤解を恐れずに言えば、近いんです。 ――なるほどね。それは、これまた誤解を恐れずに言えば、悠治さんが安田さんとやるから、ということ。 M:そうだと思います。他の存在、というのがやっぱり。これ以外の人だったら、そうはならない。 |
| ――がんじがらめという意味では、シェーンベルクなどというのは、世の中の人が見るに、一番がんじがらめな人のひとりじゃあありませんか。
M:ああ、そうかもしれない。でも、うーん、がんじがらめかなぁ。 ――これは勿論、悠治さんはモダンピアノですね。 M:そう。 ――シェーンベルクのファンタジーって、メロディがやたらあるようでない、ないようである、みたいな曲だからねぇ。セリーのものでは破格の傑作でしょ。 M:そうですね。 ――じゃあね、敢えて質問すると、シェーンベルクってのは、普通の意味ではまるっきりメロディがない音楽じゃあないですか。 M:はあ。 ――でね、ヴァイオリニストというのは、最も原初的に言えば… M:メロディ楽器。 ――でしょ。そういう人にとって、シェーンベルクみたいなね、まあこの曲は変わっているかもしれないけど、どういうところに共感していくわけ。 M:でもやっぱりヴァイオリニストというのは、さっき言ったメロディ、いつもやっているやり方というか、歌いっぱなしとか、いつものやつ、というのがみんなあるんですよ、癖、というかね(笑)。そういうものから解き放つというか、そういうことが出来るんじゃないかな、と。音の意味づけというのをちゃんとしていかないと。ただ単に、あー、って綺麗に歌ってどうにかなるような曲じゃあなくて。音のそれぞれ固有の意味があるような気がするんですよね。それを掴まえていかなきゃならないから、良いんじゃないかな、と。 ――そんなときに悠治さんという人は… M:すごい、良い。 ――松原勝也さんとしては、このようなセリーものについては、どう評価しますか。 M:セリーものねぇ、ものすごい使い方だね(笑)。でもね、どうもやっぱり、技法とかの影に隠れているシェーンベルクの音楽性というのは、そういう風に議論すると見過ごされちゃうんじゃないかな、と思う。音楽史的にセリーがダメだったか、というのはそれほど問題じゃあないような気がする。 ――要するに、松原氏としては、シェーンベルクはホンモノである、と思う。 M:そう思いますよ。それが大事なことだと思う。それは曲を弾いていて判りますからね。だから、どんなに耳に心地よい旋律を書いていても、それが人の心を打つかというと、そうじゃない曲も沢山あるわけですよ。それが、セリー技法がダメで、今の判りやすい、また旋法に戻ったようなものがすべて良い、というものではない。それは時代の流れとかで、技法とかね、あるいは自分がその中心的存在にならねばならなかった、というだけで。 |
| ――コダーイに関しましては、有名な曲ですが、安田さんとおやりになるのは。 M:初めてです。コダーイとかラヴェルとか、色々な人ととやってるけど、確かに東京のコンサートではあまりやってないですね。 ――案外、聴いたことないから。 M:確かに地方が多いかな。実はやってるんです(笑)。 ――この曲の場合は、純粋に弦楽器の面白さが表に出てくると思うんですが。M:安田さん、最初、弾くのが恥ずかしいって言ってました。「恥ずかしいんだよね、最初」って。 ――どういうことだろーなー。 M:判らない(笑)。ま、それは良いと思うけど。ま、なんかね、これは楽しみですよ。 ――これもある意味では、セッション、というイメージ。出来上がった、こういう曲ですよ、というよりもね。 M:そうですね。ま、安田さんとのデュオはないからね、これまで。ピアノトリオは何度かやったことがあるんだけど。 ――安田さんって、普通の意味で言えば、音程の取り方とか、一種独特でしょ。なかなか、ごく一般的に言えば、あわせやすいという人じゃあまるっきりないでしょ。 M:うん。そこが良いんですよ。だから、一切、いわゆる「上手くいく」タイプの演奏家じゃあないから。だからこそ会話が出来ると思うんですね。このまえもシェーンベルクの「浄夜」を一緒にやったんですよ。すごく良かったですよ。 |
| (福田氏とのデュオの曲目の変更に触れて⇒変更内容はこちら) ――これはサラサーテに変わったんですね。これは、いかにもなもんでしょ。ヴァイオリンと、伴奏、みたいな。 M:そう。まあ、そうですね。イベールの方はもっと対等なもんで。それも楽譜があります。寓話1,2,というのがあって。 ――間奏曲というのはフルートとギターがオリジナル。これは、いわゆるクラシックのデュオですよね。ちゃんと楽譜があって。 M:勿論。これは、福田さんとのデュオというのは僕は10年くらいやっているもので。あっちこっちでやっている演目だけど、あらためてこのデュオというのはね。なんかね、感覚が合うみたい。これは。 ――そういうときの感覚は、合うのと合わないのはどっちが良いの。勿論、合わないというのは、壊滅的に合わない、ってのじゃないとは判るんだけど。 M:全然ダメなのもあるしね。福田さんとの場合は、ウマが合う、というかね。自分の思ったところに、って。それが刺激がないというんじゃなくてね。で、安田さんなんかの場合は、全然違う方からやって来るんだけど。上手くいくいかない、というのと、また少し違う。 ――さらにそこに悠治さんが入ると、これはもう殆ど。 M:だから僕も予想出来ない。想像できないです。3人でやるのはすごい楽しみ。だから最後にやる。 ――極端に言えば、この曲で安田さんがやってるのは、ブンブンブン、ってのだけ。 M:ですけどね。でも、普通にはならないと思うんですよ。 ――今ね、こういうので「普通にならない」というと、「当時の装飾音はこうなっていて」とかあるじゃないですか。そういう意味ではない。 M:そういう衒学的なものではなくて、ね。 ――バッハというのは、そういうことをする素材にはなる。 M:と、思いますよ。やっぱり。 ――そういう意味では、バッハというのは特別ですか。 M:うん、特別なんじゃないかな、と思うんですけどね。 ――同じようなのだと、モーツァルトのケッヒェルの10何番、なんてソナタがあるじゃないですか。 M:モーツァルトをやるなら、今はピアノトリオをやった方が良いと思う。 ――この面子で可能だとすると、モーツァルトのピアノトリオ。決して「ドゥムキー」なんかじゃなくて。 M:そういうんじゃないね。シューマンなんかも良いかもしれない。でも、悠治さんが、ピアノをさらうのを嫌だ、ってところがあるからね(笑)。 ――どうもありがとうございました。 |