津田ホール・スペシャル21
■変幻自在のヴァイオリニストが挑む、
達人たちとの超セッション

松原勝也+(プラス)
2002年4月6日(土)7時開演



《松原勝也、+を語る》 聞き手:渡辺和(音楽ジャーナリスト)
――このバッハの曲なんですが、これは普通のソナタの次の番号ですよね。これはよくおやりになるんですか。
松原勝也(以下M):やらないです。
――技術的なことでいうと、こっち(1曲目)は悠治さんとの、ピアノじゃなくてチェンバロと。こっち(最後の曲)はバスが入って。
M:安田さん。
――それほど圧倒的に違う曲なんですか。
M:いや、曲目から考えたというよりも、人から考えたので(笑)。勿論、バッハというものを最初と最後、という考えは始めからあったんです。とにかく、最初は安田さんと悠治さんと、ピアノトリオが出来たら良いな、と思っていたのだけど。
――それは、モダンピアノで、ということ。
M:そうそう。まずはこういう形から。曲はイメージが沸かないんで。今、出来ることはこれ。この3人でやってみたいなぁ、と思っていたんです。悠治さんのチェンバロというのは僕はすごく刺激されるんで。チェンバロでは一緒にやったことはないんですけど。ピアノでは何度かやったことはありますが、この前、チェンバロを聴いて、やっぱりこれかなぁ、と思って。ここに安田さんが入ったらどうかなぁ、と、ボンヤリと思ったら、ああ、良いんじゃないかなぁ、と思って。ピアノトリオという過激な方向はとりあえずおいておいてね。
――それは全然過激ではないはずなんだけどねぇ、普通は(笑)。それが過激、という表現になるところがなんともね。
M:(笑)それがまずありましたね。それから、福田さんと渡辺さんというのは、全然違う世界なんだけど、ある種、重なる。安田さんや高橋悠治さんに対する思いと重なるところがある。でも、全然違う。で、これを一晩でどうなるかな、と思って。今までに、それぞれ一緒に共演した経験があるんだけど、飽きないんですよね。まだまだ底が見えないですね、みなさん。で、もっともっと一緒にやってみたいな、皆さん。その意思表示、というか。
――ここにギターとあって、福田と渡辺、とありますが、このふたつのギターの違いというのは、一体何なんでしょうか。
M:ああ、全然違いますよ。
――だからぁ、そういうんじゃあインタビューにならなくてぇ。渡辺さんのギターは、いわゆる、ギターなんですか。エレキギターとか、いろいろあるじゃあないですか。
M:僕も良くは知らないけど、渡辺香津美さんは、本来はエレキギターと呼ばれているものが専門なのかな、って。あんまりわかんないんですけど。でも、僕は彼のアコースティック・ギターが大好きなんです。
――ここで弾くのは、いわゆるアコースティック・ギター。
M:それが好きで、福田さんのギターも。面白いのはこの2人が仲が良くて、よくふたりでやったりするのね、リサイタルなんかで。全然タイプは違うんだけど、奏法も違うし、切り口も違うわけでしょ。奏法もスタイルも違うし。でもお互いにレスペクトがあって。その2人を見ていて、違うものが一緒にやっていく、いわゆる、クァルテットで求心的に一つの音を作る、みたいな作業もあると思うのだけど、こうやって全然違うものが、違うままにお互いを尊敬し合って、というのは、僕のひとつの理想なんですよ。クァルテットでもそうなんですけどね。
――そりゃ、昔から色々組んでやってる面子みてればわかる(笑)。そうするとね、この福田・渡辺・松原という仕掛けの中で、松原さんの作業は何をするんですか。刺激を与えるのですか、貰うんですか。
M:両方でしょうね。
――この手の音楽は、いわゆる即興というものなの、それともちゃんと譜面に書いてあるの。
M:譜面があるところもあるし、ないところもある。ないところはアドリブです。
――それはいわゆるジャズ、みたいなやつ。
M:何をもってジャズの即興というかは定義は難しいと思うんですが…
――全部の音がのっかっていて、小節線があって、みんな書いてある、というような。
M:それじゃあないです。全く、コードだけでなにもないところもありますよ。渡辺香津美さんに言わせると、僕とセッションをするときは、いわゆるジャズのセッションのフォーマットというか、即興のルールのギリギリのところを、疾走する感じなんだそうです(笑)。その辺の感覚、僕らは判らないけど。だから、僕らはなにも知らないから、福田さんもね、もう本当に思った音を弾いているだけなんですけど。
――でもさ、それって、ジャズの人達って、即興をするといっても、実はポケットにいろいろ言葉を持っていて、それを、ここだったらこういう言葉がある、みたいに出してくるわけでしょ。だけど、あなたたち、そういう教養はないでしょ。教養、というか。
M:素養はないですね。でも彼からすれば、そういうのがない方が良いそうです。よくわかんないけど。ないのが、良い。
――言うのは簡単だけど、トンでもないことだよね。
M:まあね。
――だって、芸大の先生とすれば、教えるとか何とか、絶対に出来ないことでしょ。
M:できない。
――その人が音楽とどう向き合っているか、とか、どう付き合っているか、とか。我々が使う下品な言い方をすれば、音楽性があるか、とかね。そういうのがモロに裸で出る部分じゃあない。
M:そうそう。
――恐いよねぇ(笑)。恐い、というより面白いですか。
M:まあ、僕は面白がってますけどね(笑)。
――こういうのの練習、というのは、カデンツァの終わりはどうしよう、とかするの。
M:あ、打ち合わせね。リハーサルではいろいろやってみたり。
――じゃあ、だいたい設計図みたいなものは見えてるの。
M:きっかけみたいなものはありますよ。でも、それも、本番でそれが覆ることもあって、必ず約束通りにはいかなかったり。かといって、全く野放しでする、というのも、例えば香津美さんの方が、全体の曲のバランスを見て、もう少し即興は短い方が良いんじゃないか、とか、こんな感じでやられた方が良いんじゃないか、とか。そういうヴィジョンは彼は持って弾いてますよね。だから、その辺は、必ずしも全くただ即興をやるんじゃなくて、やっぱり曲全体は視野に入って。なんとも説明のしようはないけどね。曲の持っているキャラクターとか。それを判っていて逸脱していく場合もあるし。
――こうやって話を聞いていると、ごく普通の意味で言うクラシックの発言ではないよねぇ。
M:そうかな。でも、ジャズのことはなにも知らないですよ。判らないです。でも、面白いですよ。例えば今言ったような即興のような部分の話と、バッハ、悠治さんや安田さんとやりますよね。特にバッハの場合は即興なんてなにもないわけですよ。
――次に質問をそっちに行こうとしていたところです。ありがとう御座います。
M:はいはい、即興がない、その当時、それがまた批判の対象になったわけでしょ。全部がんじがらめにして、みたいな。
――これは、装飾音を入れて遊ぼうとか、そういうのじゃあない。
M:そういうんじゃない。ただ、バッハがどういう意図で書いたかは判らないですけど、悠治さんと安田さんという2人の音楽家とこの曲を弾くということは、ある意味では、香津美さんと福田さんと即興することに、誤解を恐れずに言えば、近いんです。
――なるほどね。それは、これまた誤解を恐れずに言えば、悠治さんが安田さんとやるから、ということ。
M:そうだと思います。他の存在、というのがやっぱり。これ以外の人だったら、そうはならない。
――がんじがらめという意味では、シェーンベルクなどというのは、世の中の人が見るに、一番がんじがらめな人のひとりじゃあありませんか。
M:ああ、そうかもしれない。でも、うーん、がんじがらめかなぁ。
――これは勿論、悠治さんはモダンピアノですね。
M:そう。
――シェーンベルクのファンタジーって、メロディがやたらあるようでない、ないようである、みたいな曲だからねぇ。セリーのものでは破格の傑作でしょ。
M:そうですね。
――じゃあね、敢えて質問すると、シェーンベルクってのは、普通の意味ではまるっきりメロディがない音楽じゃあないですか。
M:はあ。
――でね、ヴァイオリニストというのは、最も原初的に言えば…
M:メロディ楽器。
――でしょ。そういう人にとって、シェーンベルクみたいなね、まあこの曲は変わっているかもしれないけど、どういうところに共感していくわけ。
M:でもやっぱりヴァイオリニストというのは、さっき言ったメロディ、いつもやっているやり方というか、歌いっぱなしとか、いつものやつ、というのがみんなあるんですよ、癖、というかね(笑)。そういうものから解き放つというか、そういうことが出来るんじゃないかな、と。音の意味づけというのをちゃんとしていかないと。ただ単に、あー、って綺麗に歌ってどうにかなるような曲じゃあなくて。音のそれぞれ固有の意味があるような気がするんですよね。それを掴まえていかなきゃならないから、良いんじゃないかな、と。
――そんなときに悠治さんという人は…
M:すごい、良い。
――松原勝也さんとしては、このようなセリーものについては、どう評価しますか。
M:セリーものねぇ、ものすごい使い方だね(笑)。でもね、どうもやっぱり、技法とかの影に隠れているシェーンベルクの音楽性というのは、そういう風に議論すると見過ごされちゃうんじゃないかな、と思う。音楽史的にセリーがダメだったか、というのはそれほど問題じゃあないような気がする。
――要するに、松原氏としては、シェーンベルクはホンモノである、と思う。
M:そう思いますよ。それが大事なことだと思う。それは曲を弾いていて判りますからね。だから、どんなに耳に心地よい旋律を書いていても、それが人の心を打つかというと、そうじゃない曲も沢山あるわけですよ。それが、セリー技法がダメで、今の判りやすい、また旋法に戻ったようなものがすべて良い、というものではない。それは時代の流れとかで、技法とかね、あるいは自分がその中心的存在にならねばならなかった、というだけで。
――コダーイに関しましては、有名な曲ですが、安田さんとおやりになるのは。
M:初めてです。コダーイとかラヴェルとか、色々な人ととやってるけど、確かに東京のコンサートではあまりやってないですね。
――案外、聴いたことないから。
M:確かに地方が多いかな。実はやってるんです(笑)。
――この曲の場合は、純粋に弦楽器の面白さが表に出てくると思うんですが。M:安田さん、最初、弾くのが恥ずかしいって言ってました。「恥ずかしいんだよね、最初」って。
――どういうことだろーなー。
M:判らない(笑)。ま、それは良いと思うけど。ま、なんかね、これは楽しみですよ。
――これもある意味では、セッション、というイメージ。出来上がった、こういう曲ですよ、というよりもね。
M:そうですね。ま、安田さんとのデュオはないからね、これまで。ピアノトリオは何度かやったことがあるんだけど。
――安田さんって、普通の意味で言えば、音程の取り方とか、一種独特でしょ。なかなか、ごく一般的に言えば、あわせやすいという人じゃあまるっきりないでしょ。
M:うん。そこが良いんですよ。だから、一切、いわゆる「上手くいく」タイプの演奏家じゃあないから。だからこそ会話が出来ると思うんですね。このまえもシェーンベルクの「浄夜」を一緒にやったんですよ。すごく良かったですよ。
(福田氏とのデュオの曲目の変更に触れて⇒変更内容はこちら
――これはサラサーテに変わったんですね。これは、いかにもなもんでしょ。ヴァイオリンと、伴奏、みたいな。
M:そう。まあ、そうですね。イベールの方はもっと対等なもんで。それも楽譜があります。寓話1,2,というのがあって。
――間奏曲というのはフルートとギターがオリジナル。これは、いわゆるクラシックのデュオですよね。ちゃんと楽譜があって。
M:勿論。これは、福田さんとのデュオというのは僕は10年くらいやっているもので。あっちこっちでやっている演目だけど、あらためてこのデュオというのはね。なんかね、感覚が合うみたい。これは。
――そういうときの感覚は、合うのと合わないのはどっちが良いの。勿論、合わないというのは、壊滅的に合わない、ってのじゃないとは判るんだけど。
M:全然ダメなのもあるしね。福田さんとの場合は、ウマが合う、というかね。自分の思ったところに、って。それが刺激がないというんじゃなくてね。で、安田さんなんかの場合は、全然違う方からやって来るんだけど。上手くいくいかない、というのと、また少し違う。
――さらにそこに悠治さんが入ると、これはもう殆ど。
M:だから僕も予想出来ない。想像できないです。3人でやるのはすごい楽しみ。だから最後にやる。
――極端に言えば、この曲で安田さんがやってるのは、ブンブンブン、ってのだけ。
M:ですけどね。でも、普通にはならないと思うんですよ。
――今ね、こういうので「普通にならない」というと、「当時の装飾音はこうなっていて」とかあるじゃないですか。そういう意味ではない。
M:そういう衒学的なものではなくて、ね。
――バッハというのは、そういうことをする素材にはなる。
M:と、思いますよ。やっぱり。
――そういう意味では、バッハというのは特別ですか。
M:うん、特別なんじゃないかな、と思うんですけどね。
――同じようなのだと、モーツァルトのケッヒェルの10何番、なんてソナタがあるじゃないですか。
M:モーツァルトをやるなら、今はピアノトリオをやった方が良いと思う。
――この面子で可能だとすると、モーツァルトのピアノトリオ。決して「ドゥムキー」なんかじゃなくて。
M:そういうんじゃないね。シューマンなんかも良いかもしれない。でも、悠治さんが、ピアノをさらうのを嫌だ、ってところがあるからね(笑)。
――どうもありがとうございました。

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